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【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第5回「真田信繁(真田幸村)」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

『真田丸』の主人公・真田信繁(真田幸村)

「歴史に学ぶ顧問シリーズ」の第5回目は、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公であった真田幸村こと「真田信繁」(さなだ・のぶしげ)を取り上げます。

真田家は弱小大名であるに関わらず、強大な徳川家に対して果敢に立ち向かった真田の生き方が人気を博しました。顧問と呼ぶべきかには異論があるかと思いますが、真田信繁が大坂の陣で果たした役割は、軍事顧問だったとも考えられます。
大河ドラマを観ていない人も一気にわかる「真田丸」をご紹介しましょう。

祖父・幸隆の時代

真田家は室町末期、信州小県(ちいさがた)郡、現在の長野県東御市を本拠地とする小さな豪族で、土地を支配する海野一族に属していました。しかし、信繁の祖父・真田幸隆(ゆきたか。「幸綱」とも)の代に、武田信玄の父・武田信虎の信州侵攻によって海野氏が敗北し、幸隆は上野の長野氏を頼り逃れます。

真田家の再興はむずかしい状況でしたが、思わぬことが起こりました。それは武田信玄が父の信虎を国外に追放して、武田家の家督を継いだことでした。幸隆はこの機会を逃さず、信玄が棟梁となった武田に帰属。信玄の信州攻略の先手衆となったのでした。そして幸隆は、戸石城攻めなどで活躍して真田の旧領を回復します。

この幸隆の三男が信繁の父・真田昌幸(まさゆき)です。

武田信玄に愛された父・昌幸

真田昌幸は幸隆の三男。長男だけが家督を継ぐのが当たり前であった当時、昌幸は人質として武田信玄に出されました。

甲斐では外様であるにも関わらず、昌幸はその聡明さを信玄に愛されました。
馬回り衆という側近に抜擢されるばかりか、信玄の親戚筋である後藤家に養子として入ります。昌幸はこの時、信玄の傍で信玄の軍略に触れ吸収したはずです。この知恵が後年、息子の信繁に受け継がれます。

本来三男で家督を継ぐ立場ではなかった昌幸。しかし、武田が織田・徳川連合軍と戦って敗れた「長篠の戦い」で兄二人が討ち死にしたため、真田家に戻り家督を継ぎ、織田信長の軍門に入ります。

昌幸の立ち回りを吸収した信繁

武田家滅亡後、織田信長による天下統一が進むかと思われたものの、本能寺の変で織田政権が無くなり、その後も秀吉と徳川が対立した「小牧長久手の戦い」などで天下は乱れます。その中で昌幸は、織田に属していた立場から、上杉→北條→徳川→上杉→豊臣と機を見ては従属する相手を巧に替えて、信州の領地を守り、さらに関東の沼田など増やして行きました。
この中で昌幸は、小さな上田城に籠って、家康が繰り出した大軍を撃退しています。信繁は父の昌幸の傍で、かつて父が信玄の傍らで吸収したように、父の軍略を吸収したことでしょう。

運命を分けた関ヶ原の戦い

真田信繁は、昌幸の次男。養子に出されるか、生涯部屋住みなるかなど、世に出ることが無くてもおかしくない立場でした。しかし、秀吉の死により世の中が東西二つに分かれて争う関ケ原の戦いで運命が変わります。
この時、真田は家を2つに分けます。父の昌幸と信繁が西軍に、長男の信之が徳川方の東軍につきます。
兄・信之と袂を分け、石田三成方の西軍についた父・昌幸と信繁は、再度上田城で徳川を撃退し局地戦では勝利しますが、西軍が関ケ原で敗れ、世は徳川の世に変わります。
敗戦後、昌幸と信繁は紀州の九度山へ配流され、蟄居となりました。

14年にわたる蟄居生活で昌幸が亡くなった後、兵を集めるための豊臣家からの呼びかけに応じて大坂城に入城し、浪人集の筆頭として徳川に対抗する案を豊臣方に積極的に献策します。
ここから信繁の軍事顧問としての活躍が始まります。 時に1614年。信繁54歳の時です。

大坂冬の陣の「真田丸」

徳川家康は1603年に徳川幕府を開いた後、日本一の大坂城に籠る、先の天下人・豊臣秀吉の遺児・秀頼を亡きものとするため、ことあるごとに因縁をつけます。そして、1614年に世に言う「大坂の陣」が起こります。
1614年11月、大坂城外に始まった戦闘を緒戦に、徳川方東軍は大坂城を総勢20万という兵で囲みます。守る豊臣方の兵は10万。豊臣方は、大坂城への籠城策を取ります。

当時の大坂城は、周囲8キロを川や空堀で囲んだ総構えの広大な敷地にあり、その大きさから言っても難攻不落の城でしたが、唯一の弱点が城の南側にありました。
そこで、その弱点の南側の城外に「真田丸」という出城を作ったのが信繁でした。当時の信繁は全く無名。さらに実兄の真田信之が徳川方の大名だったため、信繁が献策をしても他の武将から「信繁は裏切るのではないか」と疑心をもたれていたほどでした。
しかし信繁は、真田丸に攻め立てる徳川方を引き寄せては破り、油断させて引きつけては破りと、大坂冬の陣では西軍唯一の大勝をもたらします。この戦いで信繁は一気に名を上げ、軍事顧問としても信頼されるようになります。
そしてこの年内に豊臣と徳川の和睦が成立することとなります。

家康の戦略

大坂城は当時の大坂の町がすっぽりと入るほどの巨大な城で、大坂冬の陣では、その大きさゆえに徳川方は攻めきれませんでした。
そこで、家康は和睦時の約束を破り、大坂城の外堀まで埋め立ててしまいます。
徳川家康の老獪な戦略により、大坂城は裸城となります。天下の名城である大坂城でも外堀が埋め立てられると防御線がなくなり、守る豊臣方もいきなり正面から戦わざるを得ません。

さらに、劣勢である豊臣方では、肝心の秀頼を中心とする豊臣譜代はリーダー不在であるばかりか、天下人の徳川の数に対抗するために集めた寄せ集めの浪人集団であり、統一した戦略を出せない状態でした。豊臣方は戦略以前の、内部統制の問題という事実を突きつけられます。

大坂夏の陣の最後の戦い

翌1614年5月、いよいよ徳川方が大坂城を取り囲み、決戦が近づきます。信繁は最後の決戦に臨み、「秀頼の出馬」と「全兵力の一点集中」を献策します。
馬上天下をとった父・秀吉のように、馬上で秀頼が姿を現せば全軍の士気が上がります。しかし、秀頼の取り巻きが反対して出馬は叶いませんでした。

もうひとつは、全軍一丸となり、徳川家康、秀忠の本陣を総攻撃して勝機を見いだす戦略です。そこで信繁は戦いの終盤「勝つにはこれしかない」と兵士一丸となり、家康の首を取ることだけに一点集中し、真田は一丸となって家康の本陣に総突撃します。
これは弱者の戦略「一点集中」です。

この真田の猛攻に、家康側の本陣は旗本総崩れとなり大混乱します。
家康だけに狙いを定めて迫る赤備えの真田。逃げる家康。追う真田。
総大将である家康が戦場から逃げ出し、「もはやこれまで」と腹を切る覚悟まで追い詰められました。
ここに大坂夏の陣、唯一の勝機がありました。

信繁の真の戦略

この信繁の戦略では、真田の部隊は「囮(おとり)」でした。
信繁が家康本陣を正面から引きつけている間に、後方から毛利勝永軍が家康の脇を突き、さらに遊軍の明石全登(たけのり)の軍がその後を攻撃するという「家康の首を取る」ことだけに一点集中した二重、三重の作戦でした。
しかし寡兵ここまで。無念ながら信繁は討ち死になり、その戦略は多勢の前で機能しませんでした。
しかし、最後まで望みを捨てずに、宿敵の徳川を追い詰めた信繁の獅子奮迅の活躍は、敵方の徳川方武将を感動させ、武士の誉として後々まで語り継がれることになりました。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

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