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【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第3回「豊臣秀長」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

秀吉に見出された弟・豊臣秀長

第3回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」で取り上げるのは豊臣秀長です。

豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は、百姓から天下人まで上り詰めた太閤豊臣秀吉の弟(異父弟、実弟の説も)です。身内の少なかった秀吉が一番信頼できる片腕であり、兄の出世について回り大和、紀伊、泉の三国110万石の大名となります。 秀長は、兄と同じ愛知県名古屋市の西にある中村という小さな集落で生まれ、若い頃は小一郎と呼ばれました。

百姓から武士となった秀吉には、いわゆる一族郎党と呼ばれる身内がいません。そこで秀吉は、血を分けた、たった一人の弟の小一郎に目をつけました。秀長は、兄の秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていたころから、秀吉を支えることになります。秀吉にとり、実の弟はまたとない信頼のおける相手となりました。

当時の秀長に選択権があったかどうかは定かではありませんが、秀長は主君である織田信長軍団に組み込まれて、秀吉の部下として、兄について各地へ転戦することになりました。

運命のいたずらか、巡り合いの不思議か。仕えた主君の信長が天下統一を目指した上に、兄の秀吉は人の何倍も働く男でした。そして、秀長もその兄の片腕となり活躍します。

秀吉が天正元年(1573年)に滋賀県長浜ではじめて城持ち大名に任じられると、忙しく城を空ける兄に代わり秀長が城代として城を持ちました。信長の命令で秀吉が中国攻めの総司令官になると、やはり秀長も一緒に出陣して、但馬(今の兵庫県)の平定に城攻めで活躍しました。

秀吉を支える沈着冷静な秀長

派手な秀吉と違い、秀長は終始控えめで冷静な性格であったといいます。本来なら名古屋の片田舎の集落で、百姓の次男として平凡な一生を過ごすはずの秀長の人生は、思わぬ方向へと進み、兄に見出された秀長は意外な将才を見せます。

そのきっかけは天正10年(1582年)、主君の織田信長が部下の明智光秀の謀反にあって横死を遂げた本能寺の変でした。信長の死という逆境を好機と捉えた秀吉は、謀反を起こした明智光秀を山崎の合戦で倒し、信長の後継者筆頭に躍り出ました。

さらに、柴田勝家と対立する賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀長は兄について参戦。秀吉の不在時には軍を総指揮して勝家の攻撃を防ぎ切り、秀吉到着後の総攻撃に繋ぎました。ライバル柴田勝家を破った秀吉は勢いを増して、天下へと突き進みますが、その陰には常に弟の秀長がいます。

四国の長宗我部攻めでは、秀吉の代理として総大将として望み、四国制覇を成し遂げ、副将として参戦した九州の島津攻めでは局地戦で島津を打ち破りました。

天正14年(1586年)、ついに秀吉は朝廷から豊臣の姓を受けて、太政大臣という位を極めて天下人となりました。

戦国時代という領地の取り合いにおいて、たくさん領地の取れる大将こそが従える大将というのがルール。バランスの取れた性格に合わせて、戦国武将としても力量を十分に発揮した秀長は、天下人の実弟として、政権の揺るぎないナンバー2となりました。この頃、秀長は大和、紀伊、泉の三国110万石の国持大名になり、豊臣政権でも「外交は秀長に」と呼ばれるほどになりました。

天下人としてワンマン経営に突き進む秀吉。活発な兄とは対照的に、秀長の性格は温厚で控えめで真面目。バランスも良く、天下人となって諫める人が誰もいなくなった秀吉の弟として豊臣政権最大のクッション役となっていました。

秀長の死と豊臣政権での役割

豊臣政権の重要な調整役だった秀長ですが、北条攻めが終わって豊臣政権が天下統一を果たした天正17年(1589年)ごろから体調を崩しがちになり、天正19年(1591年)に大和郡山城で病死しました。享年51歳と伝えられています。

そして、ブレーキ役の秀長がいなくなった豊臣政権では秀吉のワンマンが加速します。

秀長病没の1か月後には千利休の切腹、政権を疲弊させた朝鮮の役の開始、一族においてもやっと生まれた長子の鶴松の病死、甥である秀次の追放と切腹など、豊臣政権没落の要因と呼ばれる事態が続きます。

秀長が豊臣政権に果たした役割とは何であったでしょうか。

「動」の秀吉に対して「静」の秀長はまさに良き片腕であり参謀でした。

トップとタイプの違う参謀がいたことが全体のバランスを生んでいたのではないでしょうか。

歴史に「もしもは無い」と言われますが、もし秀長が兄の秀吉よりも長生きをしていたら、豊臣政権は盤石であり、その後の徳川幕府も無く、歴史は変わっていたかもしれません。

経営に置き換えれば、会社がぐんぐん成長するときも、じっくり内部を固めるときも、経営トップを支える片腕が重要であり、秀長のような親族でなくとも、会社の顧問が経営者とは違う側面で会社を支えることができれば、組織体は安定します。

特に中小企業の経営トップは、オーナー社長として「意見がしにくい」タイプが多いため、外部である顧問であるからこそ、秀長のように企業内にバランスを生み出す役目や使命があるのではないでしょうか。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

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