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【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第2回「大谷吉継」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

小姓から秀吉に仕えた大谷吉継

「歴史に学ぶ顧問」の第2回では大谷吉継を取り上げます。


大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は、1559年(永禄2年)近江の国(現在の滋賀県)で、武士の大谷吉房の子として生まれたといわれています(諸説あり、大分県生誕説も)。

吉継は若い頃から聡明で、1573年には羽柴秀吉の小姓として仕えて可愛がられました。吉継は秀吉配下の武将として、秀吉を織田信長の継承者と決定づけることとなった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いや、秀吉の九州攻めなどで活躍し、秀吉の天下取りが進むにしたがって出世します。1585年に刑部少輔に任官し、1589年には越前(今の福井県)敦賀の城主となります。

ところで、この吉継の歴史を語る際には、石田三成との関係が必ず登場します。吉継と三成、2人の関係とその歴史はどのようなものだったのでしょうか。

秀吉を支えた派閥

天下人の豊臣秀吉政権には、大きく尾張派と近江派の2つの派閥がありました。

尾張派は、秀吉の出身地である尾張を出身とした加藤清正、福島正則、浅野幸長など、秀吉の正室おねね(北の政所)との結びつきが強い武将たちで、武断派とも呼ばれました。

一方、近江派は、秀吉が初めて城持ち大名となった長浜城主時代に、地元近江(今の滋賀県)で主に採用した石田三成、小西行長、増田長盛など、戦場の働きよりも行政処理能力に優れ、豊臣政権の政務を取り仕切った武将たちで、文治派とも呼ばれました。

吉継は、同郷出身ともいわれ、年齢も近い石田三成ととても親交が厚い仲でした。

盟友、石田三成との信義

吉継と石田三成との間柄に関しては、次のような話が伝えられています。

吉継はある時から、らい病を患っており、顔面が膿んでしまったそうです。そのような折に大阪城で武将達が列席する茶会がありました。

茶の飲み回しの順番が先である吉継。気をつけて飲んだにもかかわらず、膿が一滴、湯呑みに落ちました。それを見た列席の諸武将は茶を飲むふりをして過ごします。

顔色を失くす吉継の前で順番が回って来た三成は、湯呑みを受け取ると何ごともなかったように一気に飲み干し、「良い茶である」と言って吉継の面目を保ちました。

このような話が伝えられていることからも、吉継と三成の二人には大きな信頼関係があったことが伺えます。

秀吉亡き後の混乱

1598年、病床で死の近いことを悟った秀吉は、自身の死後に秀吉の子・秀頼を盛り立てて豊臣政権を維持して行く約束(五大老の誓紙)を、有力な大名たちと交わし合いました。

その夏、秀吉はこの世を去りますが、その翌年に調停役であった政権の重鎮である加賀の前田利家が亡くなると、潜在化していた豊臣政権下の確執が一気に表面化します。

そして、近江派の三成を亡き者にしようと、三成に積年の恨みのある加藤、福島、浅野らの武断派は三成の大阪屋敷を急襲するのです。

三成は伏見に難を逃れますが、滋賀県領地の佐和山城への引退を余儀なくされます。

一方、五大老の筆頭である徳川家康も、勝手に身内と他大名との婚姻を行ったり、大阪城内にもう一つの天守閣を築いて政務を行ったりなど、勝手な振る舞いを始めました。

家康に敵対する三成

1600年、豊臣政権下でその野心を露にし、専横を強くする徳川家康。

その家康に対して、越後(新潟県)の大名である五大老上杉景勝が、片腕の直江兼続と連携し、「直江状」と呼ばれる書状を送るなどして敵対しました。その行為に対して今度は家康が上杉征伐に乗り出します。

この機を捉え、表面上は隠棲と見せていた三成ですが、水面下で打倒家康を行うべく活動をしており、これを好機と捉えて挙兵します。

三成を諌める吉継だったが

このとき、吉継はもともと家康軍へと合流しようと関東へ向う途中でした。そこで三成は吉継と会談を行い、三成は自軍に勧誘します。この時、吉継は三成に挙兵を辞めるように諌めます。

その理由は、「三成の家禄が少ないこと」(19万石。家康は250万石)と、「人徳がないこと」です。三成に横柄だと言う諌め方からしても、2人は率直にものを言い合える間柄でした。

しかし、決意は固く翻意しない三成。これを見た吉継は、盟友として三成の西軍側に加担することを決意します。

この会談で、吉継は三成に「家康を東国に帰したのは、虎を野に放つようだ。なぜ途中で暗殺しなかったのか」と言ったとも伝えられています。

もし、これよりずっと以前にこの会談があり、三成が吉継を軍師格で迎えていれば、その後の歴史は変わったかもしれません。

そして関ヶ原の戦いへ

1600年9月15日。天下分け目の「関ヶ原」で合戦が行われました。

吉継が加担した三成側の西軍は、家康側の東軍に対し、戦い半ばまで同等の戦いをしていました。

しかし、この戦いの最中、西軍だった小早川軍1万5千の兵が大きな裏切りを行います。突如として、小早川軍が西軍に襲いかかり、戦況は激変。三成側は壊滅してしまうのです。

この時に2度にわたって小早川を押し返したのは吉継でしたが、残念ながら武運つたなく吉継は戦死します。

合理性と信義を全うした吉継

吉継は石田三成の軍師ではありませんが、三成を支えて一時は関ヶ原で西軍の勝利が見えそうな機会まで持って行きました。

己の振る舞いをもって、支えとはこうあるべき、というものを吉継は示しました。これが現在の大谷吉継人気へ繋がっていると思います。

士業は刀を持って戦う訳ではありませんが、適切な忠告を常に行う立場にあります。私たちも吉継のように、適切な忠告を顧問先に行うようにありたいと思います。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

 

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