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歴史に学ぶ顧問

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第5回「真田信繁(真田幸村)」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

『真田丸』の主人公・真田信繁(真田幸村)

「歴史に学ぶ顧問シリーズ」の第5回目は、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公であった真田幸村こと「真田信繁」(さなだ・のぶしげ)を取り上げます。

真田家は弱小大名であるに関わらず、強大な徳川家に対して果敢に立ち向かった真田の生き方が人気を博しました。顧問と呼ぶべきかには異論があるかと思いますが、真田信繁が大坂の陣で果たした役割は、軍事顧問だったとも考えられます。
大河ドラマを観ていない人も一気にわかる「真田丸」をご紹介しましょう。

祖父・幸隆の時代

真田家は室町末期、信州小県(ちいさがた)郡、現在の長野県東御市を本拠地とする小さな豪族で、土地を支配する海野一族に属していました。しかし、信繁の祖父・真田幸隆(ゆきたか。「幸綱」とも)の代に、武田信玄の父・武田信虎の信州侵攻によって海野氏が敗北し、幸隆は上野の長野氏を頼り逃れます。

真田家の再興はむずかしい状況でしたが、思わぬことが起こりました。それは武田信玄が父の信虎を国外に追放して、武田家の家督を継いだことでした。幸隆はこの機会を逃さず、信玄が棟梁となった武田に帰属。信玄の信州攻略の先手衆となったのでした。そして幸隆は、戸石城攻めなどで活躍して真田の旧領を回復します。

この幸隆の三男が信繁の父・真田昌幸(まさゆき)です。

武田信玄に愛された父・昌幸

真田昌幸は幸隆の三男。長男だけが家督を継ぐのが当たり前であった当時、昌幸は人質として武田信玄に出されました。

甲斐では外様であるにも関わらず、昌幸はその聡明さを信玄に愛されました。
馬回り衆という側近に抜擢されるばかりか、信玄の親戚筋である後藤家に養子として入ります。昌幸はこの時、信玄の傍で信玄の軍略に触れ吸収したはずです。この知恵が後年、息子の信繁に受け継がれます。

本来三男で家督を継ぐ立場ではなかった昌幸。しかし、武田が織田・徳川連合軍と戦って敗れた「長篠の戦い」で兄二人が討ち死にしたため、真田家に戻り家督を継ぎ、織田信長の軍門に入ります。

昌幸の立ち回りを吸収した信繁

武田家滅亡後、織田信長による天下統一が進むかと思われたものの、本能寺の変で織田政権が無くなり、その後も秀吉と徳川が対立した「小牧長久手の戦い」などで天下は乱れます。その中で昌幸は、織田に属していた立場から、上杉→北條→徳川→上杉→豊臣と機を見ては従属する相手を巧に替えて、信州の領地を守り、さらに関東の沼田など増やして行きました。
この中で昌幸は、小さな上田城に籠って、家康が繰り出した大軍を撃退しています。信繁は父の昌幸の傍で、かつて父が信玄の傍らで吸収したように、父の軍略を吸収したことでしょう。

運命を分けた関ヶ原の戦い

真田信繁は、昌幸の次男。養子に出されるか、生涯部屋住みなるかなど、世に出ることが無くてもおかしくない立場でした。しかし、秀吉の死により世の中が東西二つに分かれて争う関ケ原の戦いで運命が変わります。
この時、真田は家を2つに分けます。父の昌幸と信繁が西軍に、長男の信之が徳川方の東軍につきます。
兄・信之と袂を分け、石田三成方の西軍についた父・昌幸と信繁は、再度上田城で徳川を撃退し局地戦では勝利しますが、西軍が関ケ原で敗れ、世は徳川の世に変わります。
敗戦後、昌幸と信繁は紀州の九度山へ配流され、蟄居となりました。

14年にわたる蟄居生活で昌幸が亡くなった後、兵を集めるための豊臣家からの呼びかけに応じて大坂城に入城し、浪人集の筆頭として徳川に対抗する案を豊臣方に積極的に献策します。
ここから信繁の軍事顧問としての活躍が始まります。 時に1614年。信繁54歳の時です。

大坂冬の陣の「真田丸」

徳川家康は1603年に徳川幕府を開いた後、日本一の大坂城に籠る、先の天下人・豊臣秀吉の遺児・秀頼を亡きものとするため、ことあるごとに因縁をつけます。そして、1614年に世に言う「大坂の陣」が起こります。
1614年11月、大坂城外に始まった戦闘を緒戦に、徳川方東軍は大坂城を総勢20万という兵で囲みます。守る豊臣方の兵は10万。豊臣方は、大坂城への籠城策を取ります。

当時の大坂城は、周囲8キロを川や空堀で囲んだ総構えの広大な敷地にあり、その大きさから言っても難攻不落の城でしたが、唯一の弱点が城の南側にありました。
そこで、その弱点の南側の城外に「真田丸」という出城を作ったのが信繁でした。当時の信繁は全く無名。さらに実兄の真田信之が徳川方の大名だったため、信繁が献策をしても他の武将から「信繁は裏切るのではないか」と疑心をもたれていたほどでした。
しかし信繁は、真田丸に攻め立てる徳川方を引き寄せては破り、油断させて引きつけては破りと、大坂冬の陣では西軍唯一の大勝をもたらします。この戦いで信繁は一気に名を上げ、軍事顧問としても信頼されるようになります。
そしてこの年内に豊臣と徳川の和睦が成立することとなります。

家康の戦略

大坂城は当時の大坂の町がすっぽりと入るほどの巨大な城で、大坂冬の陣では、その大きさゆえに徳川方は攻めきれませんでした。
そこで、家康は和睦時の約束を破り、大坂城の外堀まで埋め立ててしまいます。
徳川家康の老獪な戦略により、大坂城は裸城となります。天下の名城である大坂城でも外堀が埋め立てられると防御線がなくなり、守る豊臣方もいきなり正面から戦わざるを得ません。

さらに、劣勢である豊臣方では、肝心の秀頼を中心とする豊臣譜代はリーダー不在であるばかりか、天下人の徳川の数に対抗するために集めた寄せ集めの浪人集団であり、統一した戦略を出せない状態でした。豊臣方は戦略以前の、内部統制の問題という事実を突きつけられます。

大坂夏の陣の最後の戦い

翌1614年5月、いよいよ徳川方が大坂城を取り囲み、決戦が近づきます。信繁は最後の決戦に臨み、「秀頼の出馬」と「全兵力の一点集中」を献策します。
馬上天下をとった父・秀吉のように、馬上で秀頼が姿を現せば全軍の士気が上がります。しかし、秀頼の取り巻きが反対して出馬は叶いませんでした。

もうひとつは、全軍一丸となり、徳川家康、秀忠の本陣を総攻撃して勝機を見いだす戦略です。そこで信繁は戦いの終盤「勝つにはこれしかない」と兵士一丸となり、家康の首を取ることだけに一点集中し、真田は一丸となって家康の本陣に総突撃します。
これは弱者の戦略「一点集中」です。

この真田の猛攻に、家康側の本陣は旗本総崩れとなり大混乱します。
家康だけに狙いを定めて迫る赤備えの真田。逃げる家康。追う真田。
総大将である家康が戦場から逃げ出し、「もはやこれまで」と腹を切る覚悟まで追い詰められました。
ここに大坂夏の陣、唯一の勝機がありました。

信繁の真の戦略

この信繁の戦略では、真田の部隊は「囮(おとり)」でした。
信繁が家康本陣を正面から引きつけている間に、後方から毛利勝永軍が家康の脇を突き、さらに遊軍の明石全登(たけのり)の軍がその後を攻撃するという「家康の首を取る」ことだけに一点集中した二重、三重の作戦でした。
しかし寡兵ここまで。無念ながら信繁は討ち死になり、その戦略は多勢の前で機能しませんでした。
しかし、最後まで望みを捨てずに、宿敵の徳川を追い詰めた信繁の獅子奮迅の活躍は、敵方の徳川方武将を感動させ、武士の誉として後々まで語り継がれることになりました。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第4回「大村益次郎」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

明治維新の軍事顧問・大村益次郎

第4回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」では大村益次郎を取り上げます。

東京九段にある靖国神社の入り口に立つ「大村益次郎」(おおむら・ますじろう)の銅像。その視線は上野の山方向を睨んでいるといわれています。

この大村益次郎は、侍の装束をしていますが、もとは武士ではなく農民の出身でした。大村は軍の近代化を行って薩長の新政府軍を指揮して、銅像の視線の先にある上野の山で旧幕府軍の彰義隊を壊滅させました。

勝海舟も手を焼いた彰義隊

幕末から明治維新にかけての1868年(慶応4年)2月、新政府軍である薩摩・長州軍が江戸に攻め上がりました。

新政府への恭順の意を示して上野寛永寺に謹慎した最後の将軍、徳川慶喜。その意を受けた幕臣の勝海舟が、新政府軍の代表の西後隆盛と会談を行います。会談の結果、幕府は降伏します。

戦を行うことなく江戸城明け渡しとなり、徳川慶喜は水戸に退去しました。

ところがこの処置に不満を持つ幕臣の武士らが徹底抗戦を叫び、もともと将軍、徳川慶喜の護衛部隊だった「彰義隊」が上野の寛永寺に立て籠もりました。これらの武士は「戦わずして従う」ことを潔しとせず、その数は2000人とも3000人とも言われるように膨れ上がり、新政府軍の薩長の武士を襲うなど江戸の治安を乱しました。

そして江戸開城以降、新政府軍は、江戸を中心に関東各地で起こった騒乱の原因が彰義隊にあると見て、彰義隊の討伐を決断します。

この彰義隊討伐の総司令官が、長州藩の参謀役だった大村益次郎でした。

武士と民兵の混成部隊を正規軍化

大村益次郎の本名は村田良庵(りょうあん)または蔵六(ぞうろく)といい、1824年(文政8年)に長州藩(山口県山口市)で医者の息子として生まれます。その後、防府や豊後日田で蘭学を学び、大阪では緒方洪庵の適塾で洋楽を学びました。成績優秀な大村は3年で塾頭となります。

その後、宇和島藩で兵書の翻訳研究や軍艦設計等を行い、1853年(安政3年)には江戸で自らの塾(鳩居塾)を開塾し評判を呼びます。秀才の評判を聞いた長州藩からの要請で長州藩藩士に移籍して1863年(文久3年)萩に帰国。翌年、兵学校の教師となり長州藩士に兵学を教えるようになります。

時は幕末。1853年のペリー来航から始まった騒乱の中、1864年(元治元年)長州藩が京都で起こした禁門の変への征伐のために、徳川幕府は2度にわたり長州征討を行います。

この時、大村は高杉晋作らが発案した長州藩の「奇兵隊」を発展させ、武士だけでなく町民から農民まで身分を問わない藩単位の正規軍として編成しました。

これは旧来の武士の戦いを覆す概念で、すべての兵が銃を持ち、組織として戦う近代的な軍の組織です。

第二次長州征討では、大村は石州口(現在の島根県浜田市)でこの隊を率いて、10倍の兵力を持つ幕府軍を地の利を活かしたゲリラ戦で撃退します。数で勝る強者と戦う時は、敵を分断して戦う戦略原則に適う戦いでした。

軍事的才能を発揮した大村は、その後の薩長同盟の結成から新政府軍による倒幕まで軍の中で軍事顧問として新政府軍の近代化を推進します。

上野戦争に用いた新兵器

彰義隊討伐の話しに戻ります。

上野の山の寛永寺(現在の東京国立博物館)に籠って徹底反抗を行い、江戸の治安を乱す彰義隊に業を濁した新政府軍は、彰義隊の討伐を決断します。この時の彰義隊討伐の総司令官となったのが大村でした。

江戸城を無血開城したものの、関東各地で旧幕府派の武士たちが不穏な動きを示す情勢上、この戦いは短期で終わらせる必要があり、大村は一人で作戦を立案します。

戦いの場となる地形を見た大村が取った戦略は、武器による圧倒的な量を注ぐ戦略でした。彰義隊が立て籠もった場所は丘陵地の高台であり、戦いにおいては高台に陣を敷くほうが攻撃しやすく有利に、下から攻める側が不利になるのが定石でした。

1868年(慶応4年)7月8日、彰義隊征伐の上野戦争当日。

大村は、彰義隊が暴発して江戸の街に火をつけるゲリラ戦を抑えるために、まず上野の山の周囲を新政府軍に囲ませます。

次にイギリスが開発した当時最新鋭の兵器であったアームストロング砲という大砲を、寛永寺を挟んで不忍池の反対側にある加賀藩邸(現在の東京大学)に配置しました。

このアームストロング砲こそが大村の切り札でした。

7月8日午前7時、雨中のなか、戦闘が開始されます。

新政府軍も彰義隊もお互いに鉄砲を打ち合う膠着した状態の中、その日の午後薩摩藩が寛永寺黒門を突破したのを合図に、ついにアームストロング砲が火を吹きました。

ランチェスター戦略では、戦いの成果は「量の二乗×質」で決まるとされています。

量とは大量の攻撃力の投入であり、質とは武器性能の質です。

質量ともにアームストロング砲は圧倒的でした。

アームストロング砲は不忍池を飛び越えて次々と寛永寺に命中。これまでの武士対武士の戦いの概念を覆す、大砲という圧倒的な質量での攻撃は破壊的ですらありました。

そして、低地からの不利な攻撃概念を覆す、圧倒的な武器性能の前に彰義隊は壊滅します。

戦意喪失した残兵も上野を捨てて逃亡し、わずか1日で上野戦争は終結しました。

この戦いの結果、江戸の治安は安定に向かいます。

その後も大村は急進的な改革を進めますが、武士の恨みを買い、翌1869年(明治2年)8月、大阪の旅館で夕食中に元長州藩士の8人の刺客に襲われ重傷を負い、その傷がもとで同年亡くなりました。

新しい発想で組織を強くする

新政府軍といっても、武士ばかりの軍上層部の中では、農民出身で武士ではない大村は異質であり、古い慣習には囚われない新しい発想がありました。

日本が強くなり、欧米列強と肩を並べるには今までの戦いでは通用しないというビジョンのもとで、身分や出身に囚われない徴兵制による軍の編成や、近代化され組織化された軍隊による戦い、刀ではなく銃や大砲など近代武器による戦いなど、外から来た軍事顧問ならではの斬新な発想がありました。

筆者は経営における外部顧問についても、大村益次郎がなした働きと同じ側面があると考えています。固定観念によって発想が固定化された組織に対して、新しい考えを持ち込み、改革を促すのが顧問の務めではないでしょうか。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第3回「豊臣秀長」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

秀吉に見出された弟・豊臣秀長

第3回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」で取り上げるのは豊臣秀長です。

豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は、百姓から天下人まで上り詰めた太閤豊臣秀吉の弟(異父弟、実弟の説も)です。身内の少なかった秀吉が一番信頼できる片腕であり、兄の出世について回り大和、紀伊、泉の三国110万石の大名となります。 秀長は、兄と同じ愛知県名古屋市の西にある中村という小さな集落で生まれ、若い頃は小一郎と呼ばれました。

百姓から武士となった秀吉には、いわゆる一族郎党と呼ばれる身内がいません。そこで秀吉は、血を分けた、たった一人の弟の小一郎に目をつけました。秀長は、兄の秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていたころから、秀吉を支えることになります。秀吉にとり、実の弟はまたとない信頼のおける相手となりました。

当時の秀長に選択権があったかどうかは定かではありませんが、秀長は主君である織田信長軍団に組み込まれて、秀吉の部下として、兄について各地へ転戦することになりました。

運命のいたずらか、巡り合いの不思議か。仕えた主君の信長が天下統一を目指した上に、兄の秀吉は人の何倍も働く男でした。そして、秀長もその兄の片腕となり活躍します。

秀吉が天正元年(1573年)に滋賀県長浜ではじめて城持ち大名に任じられると、忙しく城を空ける兄に代わり秀長が城代として城を持ちました。信長の命令で秀吉が中国攻めの総司令官になると、やはり秀長も一緒に出陣して、但馬(今の兵庫県)の平定に城攻めで活躍しました。

秀吉を支える沈着冷静な秀長

派手な秀吉と違い、秀長は終始控えめで冷静な性格であったといいます。本来なら名古屋の片田舎の集落で、百姓の次男として平凡な一生を過ごすはずの秀長の人生は、思わぬ方向へと進み、兄に見出された秀長は意外な将才を見せます。

そのきっかけは天正10年(1582年)、主君の織田信長が部下の明智光秀の謀反にあって横死を遂げた本能寺の変でした。信長の死という逆境を好機と捉えた秀吉は、謀反を起こした明智光秀を山崎の合戦で倒し、信長の後継者筆頭に躍り出ました。

さらに、柴田勝家と対立する賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀長は兄について参戦。秀吉の不在時には軍を総指揮して勝家の攻撃を防ぎ切り、秀吉到着後の総攻撃に繋ぎました。ライバル柴田勝家を破った秀吉は勢いを増して、天下へと突き進みますが、その陰には常に弟の秀長がいます。

四国の長宗我部攻めでは、秀吉の代理として総大将として望み、四国制覇を成し遂げ、副将として参戦した九州の島津攻めでは局地戦で島津を打ち破りました。

天正14年(1586年)、ついに秀吉は朝廷から豊臣の姓を受けて、太政大臣という位を極めて天下人となりました。

戦国時代という領地の取り合いにおいて、たくさん領地の取れる大将こそが従える大将というのがルール。バランスの取れた性格に合わせて、戦国武将としても力量を十分に発揮した秀長は、天下人の実弟として、政権の揺るぎないナンバー2となりました。この頃、秀長は大和、紀伊、泉の三国110万石の国持大名になり、豊臣政権でも「外交は秀長に」と呼ばれるほどになりました。

天下人としてワンマン経営に突き進む秀吉。活発な兄とは対照的に、秀長の性格は温厚で控えめで真面目。バランスも良く、天下人となって諫める人が誰もいなくなった秀吉の弟として豊臣政権最大のクッション役となっていました。

秀長の死と豊臣政権での役割

豊臣政権の重要な調整役だった秀長ですが、北条攻めが終わって豊臣政権が天下統一を果たした天正17年(1589年)ごろから体調を崩しがちになり、天正19年(1591年)に大和郡山城で病死しました。享年51歳と伝えられています。

そして、ブレーキ役の秀長がいなくなった豊臣政権では秀吉のワンマンが加速します。

秀長病没の1か月後には千利休の切腹、政権を疲弊させた朝鮮の役の開始、一族においてもやっと生まれた長子の鶴松の病死、甥である秀次の追放と切腹など、豊臣政権没落の要因と呼ばれる事態が続きます。

秀長が豊臣政権に果たした役割とは何であったでしょうか。

「動」の秀吉に対して「静」の秀長はまさに良き片腕であり参謀でした。

トップとタイプの違う参謀がいたことが全体のバランスを生んでいたのではないでしょうか。

歴史に「もしもは無い」と言われますが、もし秀長が兄の秀吉よりも長生きをしていたら、豊臣政権は盤石であり、その後の徳川幕府も無く、歴史は変わっていたかもしれません。

経営に置き換えれば、会社がぐんぐん成長するときも、じっくり内部を固めるときも、経営トップを支える片腕が重要であり、秀長のような親族でなくとも、会社の顧問が経営者とは違う側面で会社を支えることができれば、組織体は安定します。

特に中小企業の経営トップは、オーナー社長として「意見がしにくい」タイプが多いため、外部である顧問であるからこそ、秀長のように企業内にバランスを生み出す役目や使命があるのではないでしょうか。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第2回「大谷吉継」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

小姓から秀吉に仕えた大谷吉継

「歴史に学ぶ顧問」の第2回では大谷吉継を取り上げます。


大谷吉継(おおたに・よしつぐ)は、1559年(永禄2年)近江の国(現在の滋賀県)で、武士の大谷吉房の子として生まれたといわれています(諸説あり、大分県生誕説も)。

吉継は若い頃から聡明で、1573年には羽柴秀吉の小姓として仕えて可愛がられました。吉継は秀吉配下の武将として、秀吉を織田信長の継承者と決定づけることとなった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いや、秀吉の九州攻めなどで活躍し、秀吉の天下取りが進むにしたがって出世します。1585年に刑部少輔に任官し、1589年には越前(今の福井県)敦賀の城主となります。

ところで、この吉継の歴史を語る際には、石田三成との関係が必ず登場します。吉継と三成、2人の関係とその歴史はどのようなものだったのでしょうか。

秀吉を支えた派閥

天下人の豊臣秀吉政権には、大きく尾張派と近江派の2つの派閥がありました。

尾張派は、秀吉の出身地である尾張を出身とした加藤清正、福島正則、浅野幸長など、秀吉の正室おねね(北の政所)との結びつきが強い武将たちで、武断派とも呼ばれました。

一方、近江派は、秀吉が初めて城持ち大名となった長浜城主時代に、地元近江(今の滋賀県)で主に採用した石田三成、小西行長、増田長盛など、戦場の働きよりも行政処理能力に優れ、豊臣政権の政務を取り仕切った武将たちで、文治派とも呼ばれました。

吉継は、同郷出身ともいわれ、年齢も近い石田三成ととても親交が厚い仲でした。

盟友、石田三成との信義

吉継と石田三成との間柄に関しては、次のような話が伝えられています。

吉継はある時から、らい病を患っており、顔面が膿んでしまったそうです。そのような折に大阪城で武将達が列席する茶会がありました。

茶の飲み回しの順番が先である吉継。気をつけて飲んだにもかかわらず、膿が一滴、湯呑みに落ちました。それを見た列席の諸武将は茶を飲むふりをして過ごします。

顔色を失くす吉継の前で順番が回って来た三成は、湯呑みを受け取ると何ごともなかったように一気に飲み干し、「良い茶である」と言って吉継の面目を保ちました。

このような話が伝えられていることからも、吉継と三成の二人には大きな信頼関係があったことが伺えます。

秀吉亡き後の混乱

1598年、病床で死の近いことを悟った秀吉は、自身の死後に秀吉の子・秀頼を盛り立てて豊臣政権を維持して行く約束(五大老の誓紙)を、有力な大名たちと交わし合いました。

その夏、秀吉はこの世を去りますが、その翌年に調停役であった政権の重鎮である加賀の前田利家が亡くなると、潜在化していた豊臣政権下の確執が一気に表面化します。

そして、近江派の三成を亡き者にしようと、三成に積年の恨みのある加藤、福島、浅野らの武断派は三成の大阪屋敷を急襲するのです。

三成は伏見に難を逃れますが、滋賀県領地の佐和山城への引退を余儀なくされます。

一方、五大老の筆頭である徳川家康も、勝手に身内と他大名との婚姻を行ったり、大阪城内にもう一つの天守閣を築いて政務を行ったりなど、勝手な振る舞いを始めました。

家康に敵対する三成

1600年、豊臣政権下でその野心を露にし、専横を強くする徳川家康。

その家康に対して、越後(新潟県)の大名である五大老上杉景勝が、片腕の直江兼続と連携し、「直江状」と呼ばれる書状を送るなどして敵対しました。その行為に対して今度は家康が上杉征伐に乗り出します。

この機を捉え、表面上は隠棲と見せていた三成ですが、水面下で打倒家康を行うべく活動をしており、これを好機と捉えて挙兵します。

三成を諌める吉継だったが

このとき、吉継はもともと家康軍へと合流しようと関東へ向う途中でした。そこで三成は吉継と会談を行い、三成は自軍に勧誘します。この時、吉継は三成に挙兵を辞めるように諌めます。

その理由は、「三成の家禄が少ないこと」(19万石。家康は250万石)と、「人徳がないこと」です。三成に横柄だと言う諌め方からしても、2人は率直にものを言い合える間柄でした。

しかし、決意は固く翻意しない三成。これを見た吉継は、盟友として三成の西軍側に加担することを決意します。

この会談で、吉継は三成に「家康を東国に帰したのは、虎を野に放つようだ。なぜ途中で暗殺しなかったのか」と言ったとも伝えられています。

もし、これよりずっと以前にこの会談があり、三成が吉継を軍師格で迎えていれば、その後の歴史は変わったかもしれません。

そして関ヶ原の戦いへ

1600年9月15日。天下分け目の「関ヶ原」で合戦が行われました。

吉継が加担した三成側の西軍は、家康側の東軍に対し、戦い半ばまで同等の戦いをしていました。

しかし、この戦いの最中、西軍だった小早川軍1万5千の兵が大きな裏切りを行います。突如として、小早川軍が西軍に襲いかかり、戦況は激変。三成側は壊滅してしまうのです。

この時に2度にわたって小早川を押し返したのは吉継でしたが、残念ながら武運つたなく吉継は戦死します。

合理性と信義を全うした吉継

吉継は石田三成の軍師ではありませんが、三成を支えて一時は関ヶ原で西軍の勝利が見えそうな機会まで持って行きました。

己の振る舞いをもって、支えとはこうあるべき、というものを吉継は示しました。これが現在の大谷吉継人気へ繋がっていると思います。

士業は刀を持って戦う訳ではありませんが、適切な忠告を常に行う立場にあります。私たちも吉継のように、適切な忠告を顧問先に行うようにありたいと思います。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

 

著書

 

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第1回「竹中重治(竹中半兵衛)」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

 将軍を支えた参謀や軍師

源平の戦い、南北朝時代、戦国時代、幕末など、日本には戦乱の時代がありました。そのような時代には将軍をサポートする、いわゆる参謀や軍師と呼ばれる武将も存在しました。

とりわけ戦国時代の参謀や軍師は、その活躍ぶりから後の世でクローズアップされ、小説や映画、大河ドラマの中でも主役をはじめとして重要な役回りを果たすこととなります。

たとえば、武田信玄を支えた山本勘介。上杉景勝の直江兼続。徳川家康の本多正信。豊臣秀吉の竹中半兵衛と黒田官兵衛。秀吉の実弟である豊臣秀長は心強い軍師であったでしょう。

 士業と軍師

一方、私たち士業は、経営者をサポートする立場にいます。

士業に期待されるのは、外部の専門家ならではの助言やサポートです。

社内役員や社員という立場ではない士業には、客観性と専門性を活かした助言や、それと同時に親身なサポートも顧問先の経営者から期待されます。実際、そのようなサポートを受けられたとすればとても心強いことでしょう。

 「経営者の心強い顧問」という士業の立場は、歴史上における軍師や参謀と通じるものがあります。このシリーズでは、顧問とも呼べる立場で歴史上、活躍した人にスポットを当てて行きたいと思います。

1回目でご紹介するのは、竹中重治。通称「半兵衛」です。

信長も唸らせた策士、竹中半兵衛

豊臣秀吉が織田信長配下の武将であった頃、秀吉の出世を支えたのが竹中半兵衛です。

竹中重治、通称「半兵衛」は美濃大野郡(岐阜県揖斐郡)の城主である竹中重元の子として生まれ、父の死後に美濃の国を治めていた稲葉山(後の岐阜城)城主、斎藤義龍に仕えます(斎藤義龍は下剋上で有名な斎藤道三の息子です)。

竹中半兵衛が斎藤家に仕えていた頃、織田信長の軍勢による侵攻が二度ありましたが、半兵衛の巧みな戦略により二度とも撃退に成功しています。

ところが、義龍の死去後に後を継いだ斎藤龍興があまりにも無能、信望もなかったこともあり、半兵衛はクーデターを起こします。

半兵衛は15647月、部下と一緒にたった17人、わずか1日で稲葉山城を奪って占拠し、信長方を、ひいては天下を仰天させます。

信長、秀吉によるリクルートから秀吉の参謀へ

半兵衛による稲葉山城の占拠時、信長は「城の受け渡し」を半兵衛に対して申し入れますが、半兵衛は「主君を諌めるためにした行為である」と断りました。半兵衛のクーデターは主君に反省を求める行為とされたのです。

その後、実際に城を龍興に返却し、半兵衛は隠棲します。

半兵衛なき稲葉山城は、その後、信長によってついに攻略され、斎藤家は滅亡しますが、隠棲した半兵衛を信長が放っておくはずがありません。

信長は、織田の侵攻を2回も寡兵で撃退した上に、たった17人で城を奪うという行為をやってのける半兵衛を大変高く評価していました。

斎藤家を去った半兵衛に対して、部下の木下藤吉郎(後の秀吉)の配下に入れる形で信長は勧誘に成功。ここに秀吉は智謀あふれる竹中半兵衛を片腕として迎えることになります。

この後、半兵衛は、織田信長配下の出世頭である秀吉の軍師として活躍し、数多くの戦功や、長篠の戦いでは秀吉の窮地を救うなどの働きを見せますが、1579年、播磨三木城の城攻め包囲中に病に倒れ、陣中で没しました。半兵衛の容姿は婦人のようだと侮られるほどであったそうですが、その気骨や生き様は軍人そのものでした。

半兵衛の逸話で有名なのは次のエピソードです。

黒田官兵衛の窮地を救う

1578年頃、摂津の国(大阪府)の有岡城主の荒木村重が、信長に突然反旗を翻しました。

そこで秀吉は、荒木村重を説得するために、配下の黒田官兵衛を派遣しますが、有岡城に入った官兵衛は村重に捕らえられてしまいます。

信長は、帰って来ない官兵衛が寝返り、荒木側に加担したと考えました。そして見せしめのために、官兵衛の息子である松寿丸(黒田長政)の処刑を秀吉に命じました。

しかし、竹中半兵衛は官兵衛の裏切りはないと考えていたため、松寿丸を自分の部下の屋敷に隠して命を助けます。

そして、実際、官兵衛の裏切りはありませんでした。

後に幽閉から解放され、半兵衛がわが子を救ってくれた事を知った黒田官兵衛。しかし半兵衛はすでに病によって亡くなった後でした。

半兵衛の行いに深く感謝した官兵衛。半兵衛への感謝の気持ちを込めて、黒田家の家紋を竹中家の家紋に替えたと言われています。

もしこの時、半兵衛が言われたとおりの事しかできない人物だったとしたら、歴史はどう変わっていたでしょうか。

未来を見渡す視点

士業は顧問として、外部から企業への支援をしています。

また企業は、顧問に対して、外部ならではの支援を求めています。

したがって、私たち士業は、この半兵衛のように、顧問の視点から会社の未来を見据えて、やるべき事を提案したり活動したりする姿勢が大切だと思います。

いま目に見えるものも大事ですが、先を見る視点こそ、顧問は求められているのです。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

 

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