法律や税務などの専門家に 「顧問になってほしい」 というみんなの要望に応える顧問情報サイト
みんなの顧問とは?

おすすめ記事

連載記事更新情報(知的財産、ソコが聞きたい!第2回)

知的財産、ソコが聞きたい! 第2回 商標編「日本の商標制度」を公開しました。

知的財産の商標について、前回はピコ太郎さんのPPAPの事例とともにご紹介しました。また、日本での商標登録のはじまりが1884年のパリ条約の加盟だったこともお話ししました。今回はその続きで、現在の日本の商標制度について解説します。

 

知的財産、ソコが聞きたい! 第2回 商標編「日本の商標制度」

連載記事更新情報(知的財産、ソコが聞きたい!第1回)

知的財産、ソコが聞きたい! 第1回 商標編「商標とは何か?」を公開しました。

2017年1月、PPAPの商標登録の問題がマスコミに取り上げられました。

ピコ太郎さんの世界的な大ヒット曲「Pen-Pineapple-Apple-Pen」(PPAP)について、無関係の業者が先に商標出願したことが表面化した問題です。

初回となる今回は、PPAP問題について、商標の基本を理解するための具体例として解説しましょう。

解説者 弁理士 平野泰弘様

 

知的財産、ソコが聞きたい! 第1回 商標編「商標とは何か?」

 

 

『みんなの顧問』新連載企画公募のお知らせ

2017年1月
『みんなの顧問』編集部

本サイトに登録されている専門家以外からの募集を一旦締め切らせていただきました。

『みんなの顧問』新連載企画公募のお知らせ

平素より大変お世話になっております。
この度、『みんなの顧問』編集部では下記の新しい連載企画を掲載予定です。
将来的には当編集部のネットワークにより、出版社への出版企画の売り込みにも連動させる予定です。
ご検討の程を何卒よろしくお願い申し上げます。

■新連載コーナー企画(タイトル)『事業承継、ソコが聞きたい!』

■対象読者(ユーザ): 中小企業の経営者、個人事業主、相続税対策を必要とする方、士業の方
■募集対象者: 士業(有資格者)の方。事業承継の手続きやアドバイスの実経験者に限ります。
■スケジュール・連載期間: 2017年春より取材開始、順次掲載いたします。

■掲載方法: 連載コーナー『事業承継、ソコが聞きたい!』を設けて掲載いたします。
■掲載分量: 1回の取材(約2時間)で8〜10回程度の連載記事の原稿を作成いたします。

※編集部の判断で複数の専門家に専門分野ごとの分担をお願いすることがございますので予めご了承ください。

■取材・執筆方法
 御社またはポーカーフェイス社にて、ライターと編集者による取材(聞き取り)の上、記事作成いたします。
 記事完成後、ご確認いただき、連載記事化して掲載いたします。

 お問い合わせをお待ちしております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

お問合せメールフォーム

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第5回「真田信繁(真田幸村)」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

『真田丸』の主人公・真田信繁(真田幸村)

「歴史に学ぶ顧問シリーズ」の第5回目は、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公であった真田幸村こと「真田信繁」(さなだ・のぶしげ)を取り上げます。

真田家は弱小大名であるに関わらず、強大な徳川家に対して果敢に立ち向かった真田の生き方が人気を博しました。顧問と呼ぶべきかには異論があるかと思いますが、真田信繁が大坂の陣で果たした役割は、軍事顧問だったとも考えられます。
大河ドラマを観ていない人も一気にわかる「真田丸」をご紹介しましょう。

祖父・幸隆の時代

真田家は室町末期、信州小県(ちいさがた)郡、現在の長野県東御市を本拠地とする小さな豪族で、土地を支配する海野一族に属していました。しかし、信繁の祖父・真田幸隆(ゆきたか。「幸綱」とも)の代に、武田信玄の父・武田信虎の信州侵攻によって海野氏が敗北し、幸隆は上野の長野氏を頼り逃れます。

真田家の再興はむずかしい状況でしたが、思わぬことが起こりました。それは武田信玄が父の信虎を国外に追放して、武田家の家督を継いだことでした。幸隆はこの機会を逃さず、信玄が棟梁となった武田に帰属。信玄の信州攻略の先手衆となったのでした。そして幸隆は、戸石城攻めなどで活躍して真田の旧領を回復します。

この幸隆の三男が信繁の父・真田昌幸(まさゆき)です。

武田信玄に愛された父・昌幸

真田昌幸は幸隆の三男。長男だけが家督を継ぐのが当たり前であった当時、昌幸は人質として武田信玄に出されました。

甲斐では外様であるにも関わらず、昌幸はその聡明さを信玄に愛されました。
馬回り衆という側近に抜擢されるばかりか、信玄の親戚筋である後藤家に養子として入ります。昌幸はこの時、信玄の傍で信玄の軍略に触れ吸収したはずです。この知恵が後年、息子の信繁に受け継がれます。

本来三男で家督を継ぐ立場ではなかった昌幸。しかし、武田が織田・徳川連合軍と戦って敗れた「長篠の戦い」で兄二人が討ち死にしたため、真田家に戻り家督を継ぎ、織田信長の軍門に入ります。

昌幸の立ち回りを吸収した信繁

武田家滅亡後、織田信長による天下統一が進むかと思われたものの、本能寺の変で織田政権が無くなり、その後も秀吉と徳川が対立した「小牧長久手の戦い」などで天下は乱れます。その中で昌幸は、織田に属していた立場から、上杉→北條→徳川→上杉→豊臣と機を見ては従属する相手を巧に替えて、信州の領地を守り、さらに関東の沼田など増やして行きました。
この中で昌幸は、小さな上田城に籠って、家康が繰り出した大軍を撃退しています。信繁は父の昌幸の傍で、かつて父が信玄の傍らで吸収したように、父の軍略を吸収したことでしょう。

運命を分けた関ヶ原の戦い

真田信繁は、昌幸の次男。養子に出されるか、生涯部屋住みなるかなど、世に出ることが無くてもおかしくない立場でした。しかし、秀吉の死により世の中が東西二つに分かれて争う関ケ原の戦いで運命が変わります。
この時、真田は家を2つに分けます。父の昌幸と信繁が西軍に、長男の信之が徳川方の東軍につきます。
兄・信之と袂を分け、石田三成方の西軍についた父・昌幸と信繁は、再度上田城で徳川を撃退し局地戦では勝利しますが、西軍が関ケ原で敗れ、世は徳川の世に変わります。
敗戦後、昌幸と信繁は紀州の九度山へ配流され、蟄居となりました。

14年にわたる蟄居生活で昌幸が亡くなった後、兵を集めるための豊臣家からの呼びかけに応じて大坂城に入城し、浪人集の筆頭として徳川に対抗する案を豊臣方に積極的に献策します。
ここから信繁の軍事顧問としての活躍が始まります。 時に1614年。信繁54歳の時です。

大坂冬の陣の「真田丸」

徳川家康は1603年に徳川幕府を開いた後、日本一の大坂城に籠る、先の天下人・豊臣秀吉の遺児・秀頼を亡きものとするため、ことあるごとに因縁をつけます。そして、1614年に世に言う「大坂の陣」が起こります。
1614年11月、大坂城外に始まった戦闘を緒戦に、徳川方東軍は大坂城を総勢20万という兵で囲みます。守る豊臣方の兵は10万。豊臣方は、大坂城への籠城策を取ります。

当時の大坂城は、周囲8キロを川や空堀で囲んだ総構えの広大な敷地にあり、その大きさから言っても難攻不落の城でしたが、唯一の弱点が城の南側にありました。
そこで、その弱点の南側の城外に「真田丸」という出城を作ったのが信繁でした。当時の信繁は全く無名。さらに実兄の真田信之が徳川方の大名だったため、信繁が献策をしても他の武将から「信繁は裏切るのではないか」と疑心をもたれていたほどでした。
しかし信繁は、真田丸に攻め立てる徳川方を引き寄せては破り、油断させて引きつけては破りと、大坂冬の陣では西軍唯一の大勝をもたらします。この戦いで信繁は一気に名を上げ、軍事顧問としても信頼されるようになります。
そしてこの年内に豊臣と徳川の和睦が成立することとなります。

家康の戦略

大坂城は当時の大坂の町がすっぽりと入るほどの巨大な城で、大坂冬の陣では、その大きさゆえに徳川方は攻めきれませんでした。
そこで、家康は和睦時の約束を破り、大坂城の外堀まで埋め立ててしまいます。
徳川家康の老獪な戦略により、大坂城は裸城となります。天下の名城である大坂城でも外堀が埋め立てられると防御線がなくなり、守る豊臣方もいきなり正面から戦わざるを得ません。

さらに、劣勢である豊臣方では、肝心の秀頼を中心とする豊臣譜代はリーダー不在であるばかりか、天下人の徳川の数に対抗するために集めた寄せ集めの浪人集団であり、統一した戦略を出せない状態でした。豊臣方は戦略以前の、内部統制の問題という事実を突きつけられます。

大坂夏の陣の最後の戦い

翌1614年5月、いよいよ徳川方が大坂城を取り囲み、決戦が近づきます。信繁は最後の決戦に臨み、「秀頼の出馬」と「全兵力の一点集中」を献策します。
馬上天下をとった父・秀吉のように、馬上で秀頼が姿を現せば全軍の士気が上がります。しかし、秀頼の取り巻きが反対して出馬は叶いませんでした。

もうひとつは、全軍一丸となり、徳川家康、秀忠の本陣を総攻撃して勝機を見いだす戦略です。そこで信繁は戦いの終盤「勝つにはこれしかない」と兵士一丸となり、家康の首を取ることだけに一点集中し、真田は一丸となって家康の本陣に総突撃します。
これは弱者の戦略「一点集中」です。

この真田の猛攻に、家康側の本陣は旗本総崩れとなり大混乱します。
家康だけに狙いを定めて迫る赤備えの真田。逃げる家康。追う真田。
総大将である家康が戦場から逃げ出し、「もはやこれまで」と腹を切る覚悟まで追い詰められました。
ここに大坂夏の陣、唯一の勝機がありました。

信繁の真の戦略

この信繁の戦略では、真田の部隊は「囮(おとり)」でした。
信繁が家康本陣を正面から引きつけている間に、後方から毛利勝永軍が家康の脇を突き、さらに遊軍の明石全登(たけのり)の軍がその後を攻撃するという「家康の首を取る」ことだけに一点集中した二重、三重の作戦でした。
しかし寡兵ここまで。無念ながら信繁は討ち死になり、その戦略は多勢の前で機能しませんでした。
しかし、最後まで望みを捨てずに、宿敵の徳川を追い詰めた信繁の獅子奮迅の活躍は、敵方の徳川方武将を感動させ、武士の誉として後々まで語り継がれることになりました。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

「私が考える顧問選びのコツ」回答者:税理士 原尚美(はら・なおみ)さん

企業経営者や資産家、プロフェッショナルにとって、専門外の分野や領域に心強い味方がいれば、さらに本来の力を発揮できることができるはず。
一方で、積極的に企業の経営戦略に関わろうという専門家も増えてきました。
ここで困るのが顧問の選び方です。
単なるアウトソーシング先ではない顧問を探したい、しっかりした顧問が欲しいという読者向けに、各界のプロが顧問選びのポイントを伝授します

 

東京・大田区蒲田に原&アカウンティング・パートナーズ(原会計事務所)をかまえる税理士の原尚美先生。今回は原先生に顧問選びについてお話を伺いました。

(編集部)

顧問と「価値観が合うかどうか」

私は、顧客と専門家のお互いの価値観が合うことがとても重要だと考えています。
私の場合は、会社を大きくしようと願う野心のあるお客様が合っているようです。
節税を考えるのも会社にとっては大切なことですが、私は「会社を成長させる」ことを優先して考えます。税金は会社を拡大するためのコストだと。資金繰りとしての節税なら意味がありますが、節税自体を目的とする出費には興味がありません。このような価値観が合うかどうかが、大事だと思います。

顧問の「仕事が早いかどうか」

ひとつのことを何日経ってもできない人もいます。私の場合は、目の前にある仕事はすぐに片付けないと気が済みなせん。
お客様によっては、「間に合えばそれでいい」という方もいらっしゃるでしょう。しかし依頼者の仕事に対するスピード感が早い場合、仕事の遅い先生を顧問にしてしまうと、毎回イライラしてしまうことになります。

顧問が「柔軟に対応できるかどうか」

会計事務所の場合、顧問先に税金以外のことは相談できないと思っていらっしゃるお客様は多いと思います。
しかし、給与計算や資金調達、経営相談などに対応してくれる税理士もいるのです。遠慮することなく、どんどん相談してほしいと思います。

顧問が「一生懸命かどうか」

私たち自身がお客様と長期的な信頼関係を築くことができたのは、「一生懸命にやってくれている」と思っていただけたことだと思います。お客様のためにどこまでも親身に動くことが、私たちの仕事だと考えています。私たちの仕事の楽しさの原点は、お客様の「ありがとう」のそのひとことです。それですべての苦労が報われるのです。

 

回答者プロフィール

原尚美(はら・なおみ)さん

税理士
東京外国語大学英米語学科卒業。7人家族の専業主婦から税理士を目指す。1987年、東京都大田区蒲田に事務所を設立。2013年に、ミャンマーの都市・ヤンゴンに現地法人を設立。
著書に「51の質問に答えるだけですぐできる『事業計画書』のつくり方」(日本実業出版社)、「世界一ラクにできる確定申告」(技術評論社)、「会社のつくり方がよくわかる本」、「小さな起業のファイナンス」(ソーテック社)、「トコトンわかる株式会社のつくり方」(新星出版社)、「一生食っていくための士業の営業術」(中経出版)など多数

 

 

 

 

 

「私が考える顧問選びのコツ」回答者:人財育成・組織改革コンサルタント 沖本るり子(おきもと・るりこ)さん

企業経営者や資産家、プロフェッショナルにとって、専門外の分野や領域に心強い味方がいれば、さらに本来の力を発揮できることができるはず。
一方で、積極的に企業の経営戦略に関わろうという専門家も増えてきました。
ここで困るのが顧問の選び方です。
単なるアウトソーシング先ではない顧問を探したい、しっかりした顧問が欲しいという読者向けに、各界のプロが顧問選びのポイントを伝授します

 

今回の回答者は、『5分会議』を提唱・活用した実績のある人財育成家の沖本るり子さん。講師選定を例に、顧問選びのコツをお教えいただきました。

(編集部)

紹介からの依頼

私の事務所では、私の著書や雑誌の連載を読んで仕事を依頼される方もいらっしゃるのですが、ご紹介が多いです。突然業績を上げた企業に取引先がその理由を聞いて、たどり着くといった経緯などから長くお付き合いをさせていただいています。信用できる取引先からのご紹介というのは有力な手段です。

しっかりした力量の専門家を迎え入れる

講師選定の場合は、コンテンツの根拠をしっかりと語れる人を選ぶことが重要です。講師の中にはいわゆる受験生タイプ、「自分はこう教えてもらったのだから、みなさんもこうしてください」という人や、教科書や本を丸暗記しただけのような人がいます。しかし、それでは現実的、合理的な対応ができません。実力のある専門家を選ぶようにしてください。

肩書きや経歴だけで人物を見ない

スポットではなく、顧問として迎え入れるのであれば、なおさらしっかりとした能力が必要です。ここで気をつけなければならいのは、ただ経歴が長いだけではその人が優秀であるとは限らないことです。
では、どうすれば力量が測れるかというと、面接などで講師と直接お会いする際に知ることができます。たとえば、現状に合わせたカリキュラムのアレンジに対応できるかどうかという質問をすると、丸暗記型の講師では対応できないのです。

質問で「理解力」や「対応能力」を知る

研修や講習で、「法則」を口にする講師は多いものです。たとえば「メラビアンの法則」について、よくマナー講師が口にします(※)。しかし、その背景について実は多くの講師がわかっていません。つまり、本当の意味を理解しないでその言葉を使っているのです。
法則やルールを口にする講師の実力を知りたければ、どのような調査でその法則が生まれたのか、経緯を質問してみてください。これにきちんと答えられれば、合格です。

以上は講師選びでの一例ですが、質問によって力量を測るというのは、どの顧問選びでも有効なはずです。みなさんが、よい顧問に出会えることを願っています。

※心理学者アルバート・メラビアンによる実験、研究への俗流解釈。

 

回答者プロフィール

沖本るり子(おきもと・るりこ)さん

人財育成・組織改革コンサルタント。
株式会社CHEERFUL代表取締役。『5分会議』を活用したリーダー力やチーム力を向上させる人財育成や、組織活性の講習を行っている。著書に『相手が“期待以上"に動いてくれる! リーダーのコミュニケーションの教科書』(同文館出版)、『リーダーは話を1分以内にまとめなさい』(中経出版)、『出るのが楽しくなる! 会議の鉄則』(マガジンハウス)など。

 

 

 

 

 

「私が考える顧問選びのコツ」回答者:税理士 落合和雄(おちあい・かずお)さん

企業経営者や資産家、プロフェッショナルにとって、専門外の分野や領域に心強い味方がいれば、さらに本来の力を発揮できることができるはず。
一方で、積極的に企業の経営戦略に関わろうという専門家も増えてきました。
ここで困るのが顧問の選び方です。
単なるアウトソーシング先ではない顧問を探したい、しっかりした顧問が欲しいという読者向けに、各界のプロが顧問選びのポイントを伝授します

 

今回の回答者は、神奈川県川崎市の落合和雄税理士事務所の落合和雄先生。専門家に顧問になってもらい、心強い味方を得るコツについてお話を伺いました。

(編集部)

「専門外の専門家」に依頼しないように注意する

自分が相談する分野に強い専門家かどうかを見極めることが大切です。顧客から税理士、弁護士への不満を聞かされることがありますが、それは専門外の方に頼んでしまったケースがほとんどです。

たとえば、経営支援を期待するのであれば、経営に強い税理士に頼む必要があります。

本当の専門分野を探す際のポイント

顧問捜しをする際には次のことを頭に入れておくとよいでしょう。たとえば、アピールする看板の冒頭に「相続」と書いてなければ、相続は専門外の税理士です。後ろのほうに「相続」とあると、単なる箔付けの可能性があります。たいして力を入れていない分野の場合があるので注意してください。

経営全般の支援を期待できる税理士を選ぶことも大切です。ほかの分野とのネットワークを持っていて、最適な司法書士、弁護士、社労士などを紹介してもらえれば大きな助けになります。

顧問はどこまで手を貸してくれるのか?

私の事務所では、経営支援までをワンセットで行います。会社の経営を常にチェックし、借入金の対策などを経営者と一緒に考えます。経営会議にも定期的に参加しています。しかし、税理士の立ち位置は税理士によって違います。定期訪問をしない、経営支援をやらないという税理士もたくさんいます。

私は、税理士というものは節税対策をするのは当たり前だと考えています。しかし、別の税理士事務所から来られた顧客から「こういうこともやってくれるのですか!」と驚かれたことがありました。

自分が望む専門分野の士業の先生であっても、どこまで手を貸してくれるのかをはっきりとさせておくのは大事なことだと思います。

 

回答者プロフィール

落合和雄(おちあい・かずお)さん

税理士。
システムエンジニアを経て、MBA(経営情報学修士)を取得。税理士としての活動を中心に、中小企業診断士やITコーディネータ等の資格も併せて、創業支援・経営計画立案・企業再建等の経営指導やプロジェクトマネジメントのコンサルティングを行う。著書に「実践ナビゲーション経営」(同友館)、「年金に頼らない蓄財術」(アスキー新書)など。

 

 

 

 

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第4回「大村益次郎」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

明治維新の軍事顧問・大村益次郎

第4回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」では大村益次郎を取り上げます。

東京九段にある靖国神社の入り口に立つ「大村益次郎」(おおむら・ますじろう)の銅像。その視線は上野の山方向を睨んでいるといわれています。

この大村益次郎は、侍の装束をしていますが、もとは武士ではなく農民の出身でした。大村は軍の近代化を行って薩長の新政府軍を指揮して、銅像の視線の先にある上野の山で旧幕府軍の彰義隊を壊滅させました。

勝海舟も手を焼いた彰義隊

幕末から明治維新にかけての1868年(慶応4年)2月、新政府軍である薩摩・長州軍が江戸に攻め上がりました。

新政府への恭順の意を示して上野寛永寺に謹慎した最後の将軍、徳川慶喜。その意を受けた幕臣の勝海舟が、新政府軍の代表の西後隆盛と会談を行います。会談の結果、幕府は降伏します。

戦を行うことなく江戸城明け渡しとなり、徳川慶喜は水戸に退去しました。

ところがこの処置に不満を持つ幕臣の武士らが徹底抗戦を叫び、もともと将軍、徳川慶喜の護衛部隊だった「彰義隊」が上野の寛永寺に立て籠もりました。これらの武士は「戦わずして従う」ことを潔しとせず、その数は2000人とも3000人とも言われるように膨れ上がり、新政府軍の薩長の武士を襲うなど江戸の治安を乱しました。

そして江戸開城以降、新政府軍は、江戸を中心に関東各地で起こった騒乱の原因が彰義隊にあると見て、彰義隊の討伐を決断します。

この彰義隊討伐の総司令官が、長州藩の参謀役だった大村益次郎でした。

武士と民兵の混成部隊を正規軍化

大村益次郎の本名は村田良庵(りょうあん)または蔵六(ぞうろく)といい、1824年(文政8年)に長州藩(山口県山口市)で医者の息子として生まれます。その後、防府や豊後日田で蘭学を学び、大阪では緒方洪庵の適塾で洋楽を学びました。成績優秀な大村は3年で塾頭となります。

その後、宇和島藩で兵書の翻訳研究や軍艦設計等を行い、1853年(安政3年)には江戸で自らの塾(鳩居塾)を開塾し評判を呼びます。秀才の評判を聞いた長州藩からの要請で長州藩藩士に移籍して1863年(文久3年)萩に帰国。翌年、兵学校の教師となり長州藩士に兵学を教えるようになります。

時は幕末。1853年のペリー来航から始まった騒乱の中、1864年(元治元年)長州藩が京都で起こした禁門の変への征伐のために、徳川幕府は2度にわたり長州征討を行います。

この時、大村は高杉晋作らが発案した長州藩の「奇兵隊」を発展させ、武士だけでなく町民から農民まで身分を問わない藩単位の正規軍として編成しました。

これは旧来の武士の戦いを覆す概念で、すべての兵が銃を持ち、組織として戦う近代的な軍の組織です。

第二次長州征討では、大村は石州口(現在の島根県浜田市)でこの隊を率いて、10倍の兵力を持つ幕府軍を地の利を活かしたゲリラ戦で撃退します。数で勝る強者と戦う時は、敵を分断して戦う戦略原則に適う戦いでした。

軍事的才能を発揮した大村は、その後の薩長同盟の結成から新政府軍による倒幕まで軍の中で軍事顧問として新政府軍の近代化を推進します。

上野戦争に用いた新兵器

彰義隊討伐の話しに戻ります。

上野の山の寛永寺(現在の東京国立博物館)に籠って徹底反抗を行い、江戸の治安を乱す彰義隊に業を濁した新政府軍は、彰義隊の討伐を決断します。この時の彰義隊討伐の総司令官となったのが大村でした。

江戸城を無血開城したものの、関東各地で旧幕府派の武士たちが不穏な動きを示す情勢上、この戦いは短期で終わらせる必要があり、大村は一人で作戦を立案します。

戦いの場となる地形を見た大村が取った戦略は、武器による圧倒的な量を注ぐ戦略でした。彰義隊が立て籠もった場所は丘陵地の高台であり、戦いにおいては高台に陣を敷くほうが攻撃しやすく有利に、下から攻める側が不利になるのが定石でした。

1868年(慶応4年)7月8日、彰義隊征伐の上野戦争当日。

大村は、彰義隊が暴発して江戸の街に火をつけるゲリラ戦を抑えるために、まず上野の山の周囲を新政府軍に囲ませます。

次にイギリスが開発した当時最新鋭の兵器であったアームストロング砲という大砲を、寛永寺を挟んで不忍池の反対側にある加賀藩邸(現在の東京大学)に配置しました。

このアームストロング砲こそが大村の切り札でした。

7月8日午前7時、雨中のなか、戦闘が開始されます。

新政府軍も彰義隊もお互いに鉄砲を打ち合う膠着した状態の中、その日の午後薩摩藩が寛永寺黒門を突破したのを合図に、ついにアームストロング砲が火を吹きました。

ランチェスター戦略では、戦いの成果は「量の二乗×質」で決まるとされています。

量とは大量の攻撃力の投入であり、質とは武器性能の質です。

質量ともにアームストロング砲は圧倒的でした。

アームストロング砲は不忍池を飛び越えて次々と寛永寺に命中。これまでの武士対武士の戦いの概念を覆す、大砲という圧倒的な質量での攻撃は破壊的ですらありました。

そして、低地からの不利な攻撃概念を覆す、圧倒的な武器性能の前に彰義隊は壊滅します。

戦意喪失した残兵も上野を捨てて逃亡し、わずか1日で上野戦争は終結しました。

この戦いの結果、江戸の治安は安定に向かいます。

その後も大村は急進的な改革を進めますが、武士の恨みを買い、翌1869年(明治2年)8月、大阪の旅館で夕食中に元長州藩士の8人の刺客に襲われ重傷を負い、その傷がもとで同年亡くなりました。

新しい発想で組織を強くする

新政府軍といっても、武士ばかりの軍上層部の中では、農民出身で武士ではない大村は異質であり、古い慣習には囚われない新しい発想がありました。

日本が強くなり、欧米列強と肩を並べるには今までの戦いでは通用しないというビジョンのもとで、身分や出身に囚われない徴兵制による軍の編成や、近代化され組織化された軍隊による戦い、刀ではなく銃や大砲など近代武器による戦いなど、外から来た軍事顧問ならではの斬新な発想がありました。

筆者は経営における外部顧問についても、大村益次郎がなした働きと同じ側面があると考えています。固定観念によって発想が固定化された組織に対して、新しい考えを持ち込み、改革を促すのが顧問の務めではないでしょうか。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

【顧問ブーム到来の背景にあるもの】有限会社ポーカー・フェイス、ポーカー・フェイス・コンサルティング株式会社代表清水信宏

文:清水信宏(しみず・のぶひろ)
有限会社ポーカー・フェイス、ポーカー・フェイス・コンサルティング株式会社代表

企業と一体となり動く顧問によって、プロの知恵をビジネスに活かす時代へ

ここ数年で、顧問派遣に多数の人材サービス会社が参入し、顧問派遣サービスが乱立しています。

「顧問」と言っても、現役時代にそれなりの地位で実績を残したベテランがそのノウハウ・人脈・見識をもとに企業の相談に対して助言を行うような、昔からのイメージのものだけではありません。営業・マーケティング・財務・ITなどの分野で企業と一体となって動き、プロの知恵をビジネスに活かすスタンスの顧問も多く見受けられるようになりました。

今日の経営環境において、企業は「人材採用」という大きな課題に直面しています。

どんなにコストを掛けたとしても、企業が求める人材を企業の成長のスピードに合わせて獲得できるわけではありません。新興の企業で事業規模が小さければなおさらです。

このような状況で、優秀な人材を獲得するひとつのかたちとして、顧問が広まっているのではないかと考えられます

もっとも、当サイトで主に取り上げている士業については、労働者派遣の適用除外業務のため、士業ご自身がこのような現実を肌に感じることはないと思います。

しかし、景気の動向や急激な人手不足による労働需給のミスマッチは顕著であり、外部に人材を頼らなければいけない状況から、資格系の人材についても新たなニーズがあるのは明らかです

私は小さな会社の社長を20年やっている身です。優秀な人材を求めるタイミングで採用できるとはまったく思っていません。

ただ、仕事柄、私の周りには士業関係の専門家も多数いらっしゃいましたので、士業分野以外の専門家と合わせて顧問として活用させていただき事業の拡大ができました。これらの経験から、「小さな会社に求めるポジションの人材はいきなり集まらないので、中途入社した人材を長期に渡り忍耐強く育て続ける。あわせて社外顧問の活用で専門性を補う」。これが私の経営哲学にもなっています。

これからの顧問像

コンサルティングが「特定の課題に対して解決のための方策を指導する」のに対して、古くからの顧問のイメージは「企業サイドからのさまざまな相談に対し、自分の経験や知識にもとづいて助言をする」ものと冒頭で申し上げました。

さらにこれからの顧問には、従来の顧問像に加え、会社と一体となって動きプロの知恵をビジネスに活かすスタンスも求められるでしょう

たとえば、クライアント内部のキーマンが従来行っていた人的な領域を顧問が補う必要も出てくると考えられます。個人で対応する顧問はさらにその先の人脈までの活用を、組織による対応では、組織と担当コンサルタントをはじめとした専門家の人脈の活用までもが含まれてくるのです。

このように、これからの顧問は、自発的にさまざまな提案をして、多くの問題をクライアントと一体となって解決することが求められてくると思います。

士業の顧問について

士業の場合、上記のような民間の要素(ビジネスに関わる部分)だけではなく、公的な要素(法令順守など)が加わるのでバランスが求められますが、上記の「これからの顧問像」についても、ある程度は理解して臨むべきではないでしょうか。

また、顧問契約は、困ったときの用心棒代の感覚では絶対に長続きしません。顧問の個性やバックグラウンドが活かされることが必要で、そのためにはクライアントと実際に会って提案することは極めて重要だと思います。

顧問契約とインターネットの親和性について

個人を相手にする業務(弁護士なら離婚・交通事故・相続・債務整理など、税理士・司法書士なら相続・会社設立など)は、この15年でWebでの選択行動が一気に普及しました。

一方で顧問契約のように予防性が主目的で、緊急性がなく長期関与が求められるものでは、一見さんが利用するWebでの集客との親和性は低いのが現状です。

しかし、企業サイドにも一定の変化があるのは事実です。これまでは考えられないような大手企業からWebを通じて相談が入ることも見かけるようになっています。

いきなり顧問契約のお願いが来るケースはまだ珍しいですが、さまざまな企業の悩みを解決する情報をWebに掲載する士業の方は顧問契約に繋げることができています。

日常生活の病院選びでも、いきなりかかりつけ医にしようと決めるよりも、何らかの相談で病院に行ってから決めるほうが多いのではないでしょうか

次に敷居が下がるのは顧問と私がこの数年言い続ける、もうひとつの理由

Webでの士業系の顧問探しが広まると考える理由はもうひとつあります。それは士業の場合、「企業」だけでなく「個人」という市場があるからです。

個人主義が広まり、核家族化が進み、コンプライアンスにナーバスにならなければいけない時代背景に、個人であっても「かかりつけ医」に相当する顧問への大きなニーズがあるのです。実際、Webから個人の顧問を獲得している事務所さんも一定数見当たります。

周りに相談できる人がいない場合、法律的なバックボーンのある士業は適材といえます

企業も個人も周りに頼れる人材がいない時代です。士業がその役割を負うことは時代のニーズだといえるのではないでしょうか。これからは顧問という立ち位置で活躍する機会も確実に増えると考えられています

このような状況に向けた準備のために、少しでも皆さまのお力になれればと思い、当サイトは顧問選びの敷居を下げるためのさまざまな企画にチャレンジしていきたいと考えております。

執筆者プロフィール

清水信宏(しみず・のぶひろ)

有限会社ポーカー・フェイス、ポーカー・フェイス・コンサルティング株式会社代表

士業事務所専門のWebサポート事業をベースに、法律事務所・司法書士事務所を中心として活動する士業コンサルタント。長年に渡る士業に特化したサポート活動の実績により士業の業界や活動に精通しており、長期的、戦略的な視点からのサポートにも定評がある。

 

気になるホームページ

 

【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第3回「豊臣秀長」

文:ランチェスター社労士 川端康浩

秀吉に見出された弟・豊臣秀長

第3回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」で取り上げるのは豊臣秀長です。

豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は、百姓から天下人まで上り詰めた太閤豊臣秀吉の弟(異父弟、実弟の説も)です。身内の少なかった秀吉が一番信頼できる片腕であり、兄の出世について回り大和、紀伊、泉の三国110万石の大名となります。 秀長は、兄と同じ愛知県名古屋市の西にある中村という小さな集落で生まれ、若い頃は小一郎と呼ばれました。

百姓から武士となった秀吉には、いわゆる一族郎党と呼ばれる身内がいません。そこで秀吉は、血を分けた、たった一人の弟の小一郎に目をつけました。秀長は、兄の秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていたころから、秀吉を支えることになります。秀吉にとり、実の弟はまたとない信頼のおける相手となりました。

当時の秀長に選択権があったかどうかは定かではありませんが、秀長は主君である織田信長軍団に組み込まれて、秀吉の部下として、兄について各地へ転戦することになりました。

運命のいたずらか、巡り合いの不思議か。仕えた主君の信長が天下統一を目指した上に、兄の秀吉は人の何倍も働く男でした。そして、秀長もその兄の片腕となり活躍します。

秀吉が天正元年(1573年)に滋賀県長浜ではじめて城持ち大名に任じられると、忙しく城を空ける兄に代わり秀長が城代として城を持ちました。信長の命令で秀吉が中国攻めの総司令官になると、やはり秀長も一緒に出陣して、但馬(今の兵庫県)の平定に城攻めで活躍しました。

秀吉を支える沈着冷静な秀長

派手な秀吉と違い、秀長は終始控えめで冷静な性格であったといいます。本来なら名古屋の片田舎の集落で、百姓の次男として平凡な一生を過ごすはずの秀長の人生は、思わぬ方向へと進み、兄に見出された秀長は意外な将才を見せます。

そのきっかけは天正10年(1582年)、主君の織田信長が部下の明智光秀の謀反にあって横死を遂げた本能寺の変でした。信長の死という逆境を好機と捉えた秀吉は、謀反を起こした明智光秀を山崎の合戦で倒し、信長の後継者筆頭に躍り出ました。

さらに、柴田勝家と対立する賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀長は兄について参戦。秀吉の不在時には軍を総指揮して勝家の攻撃を防ぎ切り、秀吉到着後の総攻撃に繋ぎました。ライバル柴田勝家を破った秀吉は勢いを増して、天下へと突き進みますが、その陰には常に弟の秀長がいます。

四国の長宗我部攻めでは、秀吉の代理として総大将として望み、四国制覇を成し遂げ、副将として参戦した九州の島津攻めでは局地戦で島津を打ち破りました。

天正14年(1586年)、ついに秀吉は朝廷から豊臣の姓を受けて、太政大臣という位を極めて天下人となりました。

戦国時代という領地の取り合いにおいて、たくさん領地の取れる大将こそが従える大将というのがルール。バランスの取れた性格に合わせて、戦国武将としても力量を十分に発揮した秀長は、天下人の実弟として、政権の揺るぎないナンバー2となりました。この頃、秀長は大和、紀伊、泉の三国110万石の国持大名になり、豊臣政権でも「外交は秀長に」と呼ばれるほどになりました。

天下人としてワンマン経営に突き進む秀吉。活発な兄とは対照的に、秀長の性格は温厚で控えめで真面目。バランスも良く、天下人となって諫める人が誰もいなくなった秀吉の弟として豊臣政権最大のクッション役となっていました。

秀長の死と豊臣政権での役割

豊臣政権の重要な調整役だった秀長ですが、北条攻めが終わって豊臣政権が天下統一を果たした天正17年(1589年)ごろから体調を崩しがちになり、天正19年(1591年)に大和郡山城で病死しました。享年51歳と伝えられています。

そして、ブレーキ役の秀長がいなくなった豊臣政権では秀吉のワンマンが加速します。

秀長病没の1か月後には千利休の切腹、政権を疲弊させた朝鮮の役の開始、一族においてもやっと生まれた長子の鶴松の病死、甥である秀次の追放と切腹など、豊臣政権没落の要因と呼ばれる事態が続きます。

秀長が豊臣政権に果たした役割とは何であったでしょうか。

「動」の秀吉に対して「静」の秀長はまさに良き片腕であり参謀でした。

トップとタイプの違う参謀がいたことが全体のバランスを生んでいたのではないでしょうか。

歴史に「もしもは無い」と言われますが、もし秀長が兄の秀吉よりも長生きをしていたら、豊臣政権は盤石であり、その後の徳川幕府も無く、歴史は変わっていたかもしれません。

経営に置き換えれば、会社がぐんぐん成長するときも、じっくり内部を固めるときも、経営トップを支える片腕が重要であり、秀長のような親族でなくとも、会社の顧問が経営者とは違う側面で会社を支えることができれば、組織体は安定します。

特に中小企業の経営トップは、オーナー社長として「意見がしにくい」タイプが多いため、外部である顧問であるからこそ、秀長のように企業内にバランスを生み出す役目や使命があるのではないでしょうか。

執筆者プロフィール

川端康浩(かわばた・やすひろ)

社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表

人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。

 

著書

 

顧問になってもらいたい業種・分野から顧問を探す分野一覧

様々な専門家カテゴリから顧問を探すカテゴリ一覧

相談したい分野から専門家を探す